4月28日日曜日は午後から出社
ゴールデンウィークが、やってきました。
早いものですね。もう4月が終わろうとしています。
今年は、とくに暖かいのでクロダイの活性も良いようです。
この日は、6時までできる残業があるので、臨時便が4回も出たらしいです。
ま、オイラは午後からなのでノンビリ出社でしたが・・・
天沼おじさんも楽しそうですね〜〜
やっぱり日没アタリになると、かなり活性が良かったですよ。
4月29日月曜日
あまり疲れが取れないまま・・・
翌日も川崎新堤出社です。
珍しいお方に出会いました。
覚さんとは、今年初でございます。
邪馬台国は日本にはなかった。古墳時代アタリの話として
いや、最近思わされることは、「学問をキチンとやらなくて良かった」とつくづく感じています。
どうも妙なフィルターが入ってしまい、真実が見えない・・・いや、見ようとしない輩が多いのです。
それも、そのほとんどが学問を修めた人に多いというケース。
たとえば1つを紹介すると・・・
邪馬台国は、畿内にあったとか。いや、九州にあったとか未だに論争しているようですが、
もしあるとすれば、この本がいっていることにつきると思う。
古事記にも邪馬台国のことは一切出てこない。
だって、『魏志倭人伝』に書いてあるじゃないか。
って、いうけれど著者の陳寿は日本なんて来たこともない。
また、中国の歴史書はご機嫌取りの空想が多い。
そして、天皇制を堅固にするためにも何かと邪馬台国があるという方が便利なのだと思う。
さて、、、
んじゃ、卑弥呼の邪馬台国時代の日本はどうだったのだろうかといえば、、、
コレを紐解くカギは、『ゲルマン人の大移動』に尽きると。
ちょうど年代も重なるし。
要は、寒くなったんだよね。地球が・・・
山内丸山なんて、寒い寒い青森にあって粗末な格好でくらせるわけもない。
当時の関東は、東京はほとんどが海であり、群馬のアタリまで海は拡がっていた。
だから、ゲルマン人の大移動よろしく「日本古代民族の大移動」だったんだよね。
凄く端折るけど、このどんどん南下した人々が、関西アタリ(京都など)で国をまた作った。
1つの例だけど、、、
ニニギノミコトが降り立ったといわれている高天原は宮崎が有名だけど、
宮崎は、日向ともいわれ日向(ひむか)であり、お日様が向かっていくところだ。
ということは、そのお日様を見ている人は東にいるはず。
なので、、、
関東や関西ということになりニニギノミコトが降り立つ前に東の方には華やかな文明があったという理屈になるのだ。
なので、高天原は関東にあったんだと勝手に思っている。
だから、、、
神武は、いったん関東から南九州に行きそこから体勢を立て直して関西を平定する
という流れだと思う。
このように考えていくと、良くいわれる「空白の3世紀」なんてものはちゃんと空白ではなくなるんだよね。
さらに言えば、、、
少し時代が過ぎ、白村江の戦いなど百済の滅亡などの朝鮮半島の動乱(半島といっても遼東半島以北)によって多くの流民(百済や新羅)がやってきた。
当時の大和政権は、彼らの住まいに当てたのが関東平野だった。だから、相模川流域には半島系の古い地名が多くある。
コレを読むと面白いですよ。
埼玉日高市:高麗郡