ヘチ釣りの難しさ

ヘチ釣りの難しさ。 【 その1 】

この釣りの難しさっていろいろあるけれど、何よりも【その方向性】が僕にとっては、一番気になるところだ。僕は、ヘボなりに良い方向へ行ったと、この頃やっと思えるようになった。『何がよい方向だ』というと…誰が見ても良いことというのはご多分にもれずないのだけれど、この「ヘチ釣り」を永く愛していける方向へ行ってるとおもう。


それは「釣果主義」でもなく「技に溺れる」でもなく「講釈に固まる」こともなく「よそ見をする」わけでもない。自然と真摯にこの釣りと向かい合い、この釣りを愉しむ。事が出来るようになったと言うことだ。
イラスト 有名人は、その高名故に釣果に走り、立ち禁や人の入れない場所にわざわざ行ってやっと釣果上げ、それを誇ったり。釣果がともなわずに講釈に走ったり、技術論に終始する。といったような事が多い。
これは大体、釣り師が成長過程にあって誰でも陥ることなのだけれど。陥ったままの人も多い。


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何を言いたいかというと、成長段階にあるヘチ師が安易な世界に行き釣果を得、その世界から脱出することの出来ないことが大きな問題だということを言いたいのだ。

僕もそうだったけれど、変なスタイルに陥ると抜け出るのに非常に時間がかかる。

例えば、「たまたま地底で待っていたら釣れた。」それはそれは嬉しいに決まっている。その人は、また地底狙いで黒鯛を待っている。それ以外の釣りをあまりしなくなるという変なスタイルに陥ってしまう。たかだか趣味だから良いじゃないかということもあるけれど、この釣りの深さや味わいの広さを考えると淋しいものが大いにある。

「たまたま地底で釣れた。」ことから結構離れづらくなる。良質な先輩や師匠、釣り仲間がいると修正してくれたりする。有り難いことだ。しかしまわりが「たまたま派」だったら、そのまま折角のヘチ釣りの面白さを知らずに時間を過ごしていくことになる。

僕の場合、いろいろと回り道をしたけれど、今では修正してくれる釣り仲間がいるので、有り難いことだと本当に思う。いろんなスタイルの方々がいて、それぞれがそれなりの方向へ個性として向かっている。しかし一緒に釣りをしたりする場合は、そのスタイルや姿勢を指摘してくれる。

どれが一番良い釣り方というのがあるわけでもない。けれど、「地底釣り」「待ち釣り」「変わった場所でのリスクの多い釣り」などを見たり聞いたりしていると『勿体ないな』と思うのだ。


たかだか趣味だから良いのだろうけれど・・『勿体ないな』と。


一度はまったら抜け出るのに時間がかかるから余計にそう思う。
イラスト














ヘチ釣りの難しさ。 【 その2 】【 恵みを一つ 】

『カンバック!〜〜オヤジさん!』

 残念だが、この頃馬鹿な釣り師が多い。ハッキリ言って、脳みそと体と心のバランスが非常に悪いヤツらが多く出現してしまった。哀しいことだとつくづく思う。

先日、釣り仲間とこの事に関して語り合い、これは本当に哀しいことだと痛感してしまった。
馬鹿な釣り師が多く出現したお陰で、心ある釣り師達がどんどん居無くなる。困ったことだ。また、このお馬鹿さん達と来たら、自分らがどうもお馬鹿であると言う事すら分かっていないらしい。残念なことだ。バカに付ける薬は無いというが全くだと思う。

何故そんなにバカが増えたのだろうと考えてみた。
教えてくれる人が居無くなったことだ。僕も以前は立派なバカだった。そんなお馬鹿の代表のようなボケの僕が何故バカじゃなくなったかというと、



   それは『おじさん達のオカゲ。』
イラスト  バカがはびこる釣り場ほど醜いものはない。

[ゴミを捨てたままにするバカ。]
[仲間を多く呼んで宴会をするバカ。]という基本的なお馬鹿達。
マナーは良いけれど、釣り方が一応に醜いお馬鹿。
[おぉーい魚が逃げ行くぅ。]
[足音をたてながら釣り歩くバカ。]
[大きな声で話し込む馬鹿。]というちょっとお馬鹿じゃないけれど、
もう少し考えて欲しいお馬鹿達。

[仕掛けを変える時にヘチにいたままで替えるお馬鹿。]
[ストリンガーをブラブラ下げて音を立てるお馬鹿。]
[のぞき込むお馬鹿。]とお馬鹿は様々だ。

クラスは違ってくるけれど、
[上手くなって釣果を誇るお馬鹿。]
[つれた場所を言いふらすお馬鹿。]
[釣った魚をぶら下げながら歩くお馬鹿。]
[威張り散らすお馬鹿。]
[釣れる場所から動かないお馬鹿。]
こちんこちんに頭の固いお馬鹿達。

あぁ〜〜お馬鹿よ! お馬鹿。お前のことだよ!


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こんなに沢山いる[お馬鹿達]を駆除するには、『おじさん達』にご登場願うしかないのだ。
と、思う。


確か以前は、バカを叱るオヤジがいたのだ。ちゃんと存在した。
[馬鹿駆除特効薬]は、オヤジ達だ。
最も最悪なお馬鹿だった僕を、叱り飛ばし蔑み、地に叩き付けたのは誰であろう『オヤジ達』だ。


偉大な『オヤジ達よ。カンバック!!!』
と叫ばずにおられないのは、僕だけではあるまい。

 「おいっ、覗いていていたら魚が逃げるぞ。邪魔だから、あっち行け。」
「今落としていてもつれないよ。練習しているの。」
「こらっ、仕掛けは持って返れよ。」
「チャラチャラ音立てて歩くなよ。逃げるんだよ。」

から

 「おいっ、今当たってたぞ。」
「おいっ、そんな柔な落とし方じゃ魚が馬鹿にしているぞ。」
「この風だとアソコの方が、ぶつけていて良いんじゃないか。」
「この潮のを読まないと、上手くならないよ。」
「この潮二枚だな。」
「これは、濁っているが釣れる濁りじゃないぞ。」

などなど。
イラスト  『釣り場のオヤジ達』は、輝いていた。

昔クソ生意気な僕もオヤジ達の前では、“シュン”としていた。
あのオヤジ達はどこへ行ったのだろうか。
心の底から哀しい事件が世の中を飛び回るオカゲで、心優しきオヤジ達は[お馬鹿達]に対して、口を開かなくなったのだろうか。確かに下手に口を挟むと刃物が飛んでくる時代だ。“良かれ”と思って注意したら“キレル”お馬鹿達の出現で、『偉大なオヤジ達』が居無くなったのだろうか。

僕も知り合った釣り人やネット上の釣り人に良かれと思って、忠告をするけれど・・全く理解を示さない輩が多くなっている。
まぁ〜僕の場合は、威厳も何もないからダメなんだろうけれど。それでも一応は言ってみるのだ。
   もしかしたら理解してくれるかもしれないから。
   誰だって、見込みのないヤツに言いやしないし。

そうそう僕は、以前オヤジ達から言われると嬉しかった。

何故なら、僕には見込みがあると勝手に思っていたからだ。誰も見込みがない者に、言いやしないよね。だから、『釣り場のオヤジ』から注意されると、逆にくっついてもっと教えてもらおうとちゃっかり会話をせがんだものだけど。



 ああ〜〜馬鹿がはびこる釣り場に、『オヤジ達カンバック。』イラスト












ヘチ釣りの難しさ。 【 その3 】

【 上達する方法 】:ヘチ年増

この釣りの難しいところは多い。
しかし錯覚している部分がつくづく多いといつも思う。
イラスト
『黒鯛のアタリは、微妙で難しい。』
という定説は、僕にとっては
「上級者の作った“ウソ”だ」と思っている。
ヘチ釣りでの《黒鯛のアタリは難しくあって欲しい》とヘチ釣りをしている人はそう思っているのだ。そう願っているのだ。それが現状だと思う。


おかしなコトを言っていると思われるかもしれないが、正直に言うと『黒鯛のアタリは、難しくありません。』
何故ならば、初心者や上級者以外の人々には、その《各々のレベルでしかアタリは、分からない》からだ。
『難しい』 『微妙』とか言ってワザと難しくしているとしか思えない。

  実際は、分かりやすいアタリなのだ。

    『難しい』 『微妙』とか言って脅している。


自転車に乗れない人に、難しいと脅しているようなモノだ。自転車に乗れるようになると「何故こんなに簡単なの」と思ってしまうぐらい。
スロットルマシーンで目押しが出来るようになるのも最初から難しいと思うと出来ないけれど、積極的に何回もチャレンジしていると「以外と簡単だ」とわかる。
ようは【如何に沢山経験して積極的にチャレンジするか】が肝心だ。

ヘチ釣りの初級者が、洗脳されている『黒鯛のアタリは、微妙で難しい。』に囚われて、難しい難しいと思いこんでいても、ひょんな事から簡単に釣れてしまうことが大半だ。


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実は、初級者には、初級者しか解らないアタリなのだ。
それ以上のことは解らないのに難しい難しいと自分に言い聞かせても言い訳ぐらいにしか実際は使えないのだ。
足し算や引き算しかできない人にかけ算や円周率、ルートなどのことを言って算数を難しくして不安がらせているのと同じだ。足し算や引き算が出来る人には、出来る人なりのアタリしか解らないし、それ以上のことを解れと言うのが無理なのだ。

だから僕は、現在の足し算や引き算のことしか考えない。解らない割り算や掛け算のコトを、因数分解のことなんて考えてもどうにも成らないからだ。目の前にあるコトをひたすらやるだけだ。


この『難しいという錯覚』が、余計にこの釣りを難しくしている。


難しいという都合のいい理由が、手っ取り早い上達する方法を逆に難しくしているのだ。

Aさんに聞くと、「ガン玉はコレコレで、ハリはコレ。ラインは○○で、落とし方は、こうだ。」と言う。
Bさんに聞くと、「ガン玉はコレコレで、ハリはコレ。ラインは○○で、落とし方は、こうだ。」と違うことを言う。
Cさんに聞くと、「ガン玉はコレコレで、ハリはコレ。ラインは○○で、落とし方は、こうだ。」とまた違うことを言う。
同じくDさんも。Eさんも。みんな違う。

ようは、みんなやり方が違うし、近くの仲間も少しずつ違う。
それなのにAさんのコトを聞いたり、Bさんのコトを聞いたりして定まらない。


イラスト結局のところ、醜い『耳年増(ミミドシマ)』になり、ちっとも上達できないで経験だけ他の人よりも多いという『ヘチ年増』になってしまうのだ。


釣り場に着き、いざ始めるとAさんのやり方やBさんのやり方が、アタマを横切り。アタリもなく釣れないでいると、CやDのいうこと挙げ句の果てには、E、F、G、Hと堂々巡りを始める。もうコレは滑稽でしかない。

よく仕事でも使う言葉だが、
「スペシャリストは、グローバルなことを考えられるようになるが、最初からグローバルなことを考えようとするヤツは、スペシャリストには成れないのだ。」と。一つも身に付かない。

自分の心をピュアにして、この人だと決めた人に師事すれば以外と簡単に上達するのだ。
例えば、A名人に師事していながら、山○名人のマネをして、「そういえば雑誌で田○名人は、米○名人は、こうだったな」なんていうのは、かなり哀しい。


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Aさんのやり方が、見えてきて実戦できるようになると、Bさんの言うこともCさんの言うことも大分わかってくるに違いない。

『難しいという錯覚』が、いろんな意見のいいなりや奴隷になり、底の浅い上澄みだけの知識野郎になってしまうのだ。 釣果主義に走ったり、技術論者になったりするのだ。


イラスト
僕が大好きだった磯子の老名人は、いつも楽しそうだった。「釣れたら嬉しいし、釣れないと寂しい。」という釣り人としての当たり前のスタンスを持っていた。技術のことについて何も言わなかったし、釣果を誇ることもしなかった。

いつも言うことは、『今日も魚に遊んでもらいましょう。』と言って、淡々と釣り上げていらっしゃった。

僕は、コレが一番だと思っている。
『難しいという錯覚』に囚われて彷徨うよりは、当たり前のスタンスでいることが一番だ。

Aさんが好きならば、ずっとAさんにくっついてお勉強をさせてもらうことが一番だ。

別に師弟関係を結ぶ必要もないし(僕はこういうのが嫌い)、上下でもない。《いつも一緒に魚に遊んでもらう仲間》なのだから一緒に遊んでお勉強できれば一番良いに違いない。



横で釣り上げるのが一番のお礼なのだから。
イラスト