先日、NHKで蘇我入鹿の棺らしきものが発見されたという番組をやっていた。
が、ひと言申したいのでここに記すことにします。
『日本書紀』と朝鮮半島の最古の歴史書『三国史記』新羅第二十七代のあたりを読んでもらうと解りやすい。
ご興味のある方は是非。
詳しく書くと長くなるので、簡単に済ませたい。
これだ!
新羅の『ひどん(毘曇)の乱』は、新羅が善徳王(632〜647女帝)の時、和白の筆頭
ここから拝借しました。→
新羅の『ひどん(毘曇)の乱』
- 蹴鞠で出会うシーンが一緒:中大兄皇子と鎌足との出会い。金春秋と金庚信も同じ。
- 和白とは: 新羅の部落会議に源をもつ全員一致の合議政体
下の図は、ウィキペディアから → 聖徳太子
『三国史記』では、比智(毘曇の曾祖父)の娘が東城王(百済第二十四代)の王妃。
『日本書紀』では、稲目(入鹿の曾祖父)の娘が欽明天皇の妻に。
これを照らし合わすと、
欽明天皇=東城王となる。
さらに、、、
『日本書紀』では、欽明の子は、用明天皇。
『三国史記』では、東城王の子は、聖明王。
さらにさらに、、
『日本書紀』では、用明の子は、聖徳太子。
『三国史記』では、聖明の子は、威徳王。
となるのだ。
この不思議な一致は、日本書紀が三国史記(または自分たちの歴史)をそのまま移植した。ということになります。
用明天皇の腹違いの兄弟で彼の前の天皇である敏達天皇は、
百済大井宮で即位した。
新撰姓氏録では、
敏達天皇の孫である「大原真人」さんは、出自謚敏達孫百済王也。
同じく子孫の島根真人さんも大原真人同祖百済親王之後也。
お孫さん達が、百済王家の出自ならおじいさんも百済王であるはず。
つーことは、上の系図は、百済家の系図だということで日本では無いつーことになります。
参照:ワニブックス「日本神道の謎」より鹿島昇著より
日本人の心の大黒柱である「聖徳太子」その例にもれず日本人では無いと思われるし、
まったくの架空の人物だと思います。
残念ながら・・・・
(次回やります)
誰だ!こんなウソばっかり作ったのは!!
んで、もう一ついいたいことは、
っだっから、壬申の乱以前の天皇家は、近親相姦したり、親兄弟を殺しまくったりとするわけですよ。
日本人ならあまりしないでしょ。んなこと。
どう思う?
<追記>
ただし、どっちが先なのか?
これは、解らないのが現状です。
もしかすると、三国史記が真似たのかも知れない。
これは、ミステリー。