僕らは存在していない。
その思いのきっかけは霊的体験から。
釣行もできず、仕事ばかりをしているのでちょっと余話として。
この記事の続きかな。
「僕らは存在していない」という感覚を持ったのは、、、
以前の記事でも書いたけど・・・
集中してものを見つめているとその世界と同化していく感覚になる。
見られている対象物と見ている自分が一体化する感じになるのだ。
この感覚のベースになった体験を書いてみよう。
小さな集落に起こった不思議なこと
僕が小学4年生の頃のできごと。
コタツがあったので寒い冬のできごとだった。
近所のおばさんが亡くなり、父と母は通夜に出かけた。
(ま、寂れた山村だから近所といっても遠いけど)
家に残されたのは、僕と姉の2人。炬燵に入ってテレビを観ていた。
そんな時、玄関をドンドンと叩いている音がする。
姉と2人で見てみると玄関のガラス戸に人影がある。
姉にほだされて渋々僕が玄関に・・・
「はぁーい。今開けます〜」って感じで玄関を開けると誰もいない。
「あれ?!おかしいね?」
「確かにいたよね!?」
なんて姉と不思議がっていた。
その時は、何とも思わなかった。見間違いだろうぐらいのこと。
数日経って、集落でこのことが噂になった。
ほとんどの家で、この現象があったらしい。
大人たちは「挨拶に回ったんだよ」と。
以来、僕はたくさんの霊的な体験をするようになった。
その詳細を書いていくと怪談話になりかねないし、本筋からそれてしまうので話をすすめる。
霊的な存在と物理的な僕らの存在
体験したくて体験できるものでは無いけれど・・・
このような経験を積むたびに思うようになったのは、、、
「霊的な存在と物理的な僕らの存在は、どちらがメインなのか?!」
という問いだ。
この問いに対して僕は、
「霊的な存在がメインで、僕ら物理的な存在はサブである」
と思うようになった。
(いや、思っている)
霊的な存在の方がメインなのだ。
霊的な世界の中に物理的な存在の宇宙が存在している
といってよいと思う。
まったく理解できない奇跡の世界
世の中には「信じられない奇跡」というのが多くある。
死人が息を吹き返したとか。
空を飛んだとか。
枚挙に暇がない。
奇跡で有名なのは、なんといってもイエス・キリストだろう。
聖書では数々の奇跡を行っている。
それこそ死人が生き返ったり、盲人が見えるようになった。
などの記述が多くある。
「嘘だろう!?」と思うのだけど・・・
不思議なことにイエス・キリストを一番否定して忌み嫌っているユダヤ教のユダヤ人がキリストの奇跡を書き残している。
ユダヤ人たちは、キリストのおかげで世界中から忌み嫌われ虐げられてきたこともあり、身内にキリスト教徒が出たならば・・・
親子であろうが、縁者であろうが即刻縁を切る
ほど、キリストを忌み嫌っている。
そのユダヤ教のラビたちが、キリストが行った奇跡の数々を書き残しているのだから完全にキリストの奇跡を否定できるのものでは無い。
(ただし、ラビたちが書き残したのは「奇跡を起こして民衆を惑わした」という意味からだけど)
さて、、、
生まれながらにして目の見えない人が、見えるようになるのだろうか?
細胞は壊死しているか、または最初から存在していないのだから、どうやったって見えるようになるわけがない。
果たして・・・
生まれながらの
物理的存在の僕らから見たら、このような奇跡は「有り得ない」という結論にいたる。
しかし、、、
霊的な世界がメインで、僕らの世界を包括しているのであればことは簡単である。
たとえば、僕らがテレビゲームの作り手ならば、設定を変更すれば良いだけの話。
なのだ。。。。
僕が小学4年生の時に体験したことは、僕が霊感が強いからではない。
村中の人々が体験したのだから。
霊的な存在は確かにある。
ということ。
もっといえば、、、
僕ら三次元の世界の上に高次元が存在している
ということになる。
まあ、こんなことを考えても仕方がないけれども、、、
気になって仕方がないのだ。
最後に、、、
丹沢山系ので不思議な体験
去年の秋に丹沢の山をハイキングしていた時の話。
僕は一人で、丹沢山系の檜洞丸からツツジ街道を経て、ユーシン渓谷を抜けるコースを歩いていた。
渓谷の見事な自然を楽しみながら、沢沿いを歩いていた時のこと。
「ん・・・」
人の気配がする・・・
と感じてはいた。
すると、しっかりと固定されているはずの僕のリュックサックの紐が解けている。
あれ!?と思いながら、再びカチッと結ぶ。しばらくするとまた解けている。
こんなことが数回続いたので、しっかりどうやっても解けないようにした。
けど、、、
簡単に解けてしまっている。
・・・・
その時、理解した。
誰かがいるのだろうと
挨拶に来ているのだ。
僕は、周りを見渡して「ありがとう」と挨拶をした。
それから紐は解けることがなくなった。
居るけれど、僕ら三次元の世界の人間には見えないこともあるのだ。